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木嶋真優 with シティフィル (2017/7/22)

こんな日にクラシックのコンサートに足を運ぶとは我ながら物好きな、と思いたくなるような猛暑である。

1曲目は弦楽合奏。
久々に聴くこのオーケストラの弦の響きが、以前より艶やかに、音楽的になったように感じる。

2曲目はバイオリン協奏曲。
協奏曲と言っても、第一楽章は、ゆったりとした独奏が、延々と続く。

堂々とした響きである。
以前聴いた時とは音が違う。
楽器か弓を換えたのだろうか。

第二楽章は一転して賑やかな音楽。

驚くほど達者な演奏である。
音だけでなく、演奏スタイルも大きく変わってきている。
ロシア文化の一面にあるハチャメチャさ、無茶苦茶さを苦もなく表現している。
これは楽譜と向き合っただけで会得できるものとは思えない。
きっとロシアの音楽家との深い交流の中で身につけたものであろう。

そして第三楽章には、信じられないほどに長いカデンツァ。

なるほど、暗譜できるというだけでも驚異な、これほど難解な曲を、この水準で演奏できたら、コンクールで優勝できるわけである。

ただ、聴いているうちに、確かに堂々たる響きではあるけれども、この音色は、この奏者の肉声ではないな、と感じてくる。
楽器が、奏者の個性を受け容れず、楽器自身の地の音を主張している感じがする。

こんな反応をする楽器は、知る限りでは、ストラディヴァリウスだけであるが、パンフレットを読んでいた同行者が、帰りの電車の中で、あの楽器は、ある個人所有者から借りているものらしい、と語っていたので、やはりそうか、と合点が行った。

ところが、第三楽章のある時点で、奏者の肉声が聴こえ始める。
すると、演奏に対する共感が、自分の中に生じるのを感じる。
音楽とは、そういうものなのだろう。

観ていて驚くのは、相当に激しい演奏が続いているように見えるのに、弓の毛が、一本も切れないこと。
一見激しく見えても、絶妙なバランスで弾く技術を備えているのだろう。
と感心していたら、第三楽章の終盤で弓の毛が切れた。

それはそうだろう。
どれほど才能があっても、どれほど研鑽を積んでいても、生身の身体であるから、これほどの身体運動を続けていて、消耗しないことは考えられない。

しかし、そのこと以外では、奏者が消耗していることは、音からは全く感じられない。

食事に工夫があるのだろうか、それとも、自分にぴったりなトレーナーを見つけて、身体調整とトレーニング指導を受けているのだろうか、
そんなことまで思い及んでしなう、驚きの演奏だった。

休憩を挟んでの演奏会の後半は、交響曲。
この作曲家は、クラシック音楽に馴染みがなくても、素直に親しめる音楽があるかと思えば、それなりにクラシック音楽を聴いて来ていても、つかみどころのない音楽があったり、と日本人の感性を基準にする限り、全貌が見えないことろがあるのだが、この交響曲は、どちらかと言うと後者であり、ブルックナーやマーラーであれば、長大な構成にならざるを得ないことは、聴いていて、何となく判るが、この交響曲がどうしてこれほど巨大にならざるを得ないのか、の必然性は、聴いていて感じ取れない。
ところが、終盤に近くなって、ふっと耳馴染みのよい旋律が聴こえてくる。
すると、ふっと音楽に惹き寄せられる。
やはり、この作曲家にも、ブリテンと共通するような、英国独特の、難解さを持っているのかな、と思った。

第308回定期演奏会
2017年7月22日(土)14時 オペラシティ
藤岡幸夫 指揮 東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団 
パーセル(ブリテン編) シャコンヌ ト短調(弦楽合奏のための)
ショスタコーヴィチ    ヴァイオリン協奏曲第1番 イ短調 作品77(独奏 木嶋 真優)
エルガー          交響曲第1番 変イ長調 作品55

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