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サラ・チャン with 新日フィル (2017/3/25)

めったに来ないオーチャードホール。

音響に乏しい先入観があったのだが、序曲が始まってみると、ちゃんと残響が聴こえる。

冒頭は、第一バイオリン内のアンサンブルが、ちょっと悪いかな、と感じたが、終盤のコーダ辺りから、ぴったりと合ってくる。

すると、音楽が胸に響いて来る。

ベートーベンが作曲しただけのことはあって、きちんと演奏すると、演奏効果が挙がる。

こうやって、序曲のうちにオーケストラのコンディションを整えてくるところを見ると、なかなかの指揮者なのかも知れない。

そして、大御所のバイオリン奏者の登場。

まず、何ともいえない美音に驚く。

こんなに柔らかで優しいバイオリンの音色を聴くのは初めてかもしれない。
高弦、すなわち、A線とE線については、うっとりするほど美しい。

また、細かい音が続くテクニカルな部分での、個々の音の粒立ちもきわ立っている。
おそらく、右手と左手との同期の精度が、他のバイオリン奏者よりも高いのであろう。
ここが、この演奏家の天分と言えるところなのかも知れない。

最初の独奏が終わり、管弦楽になると、これがまた素晴らしい。
目の前で、森の木々が、風にあおられて傾いたかのように、空間がねじれるのが感じられる。
やはり、この指揮者、ただものではあるまい。

第二楽章は、夜の森の静寂を、音にしたものであることが感じられる。
バイオリンの響きは、無音の自然世界における、人間の内面のイマジネーションを語っているかのようだ。

第三楽章では、独奏が終わって管弦楽が鳴っている中で、独奏者が、何度も何度も、左手の指の動きとビブラートのパターンを繰り返し確認している。

なるほど、この奏者は、このような、片手だけの練習を取り入れて、充分練れてから、右手と合わせているのかも知れない。
努力の仕方を知っているからこそ、天才なのであろう。

休憩を挟んでの後半は、リストの交響詩2曲。

変わったプログラム構成だが、シベリウスの濃厚な演奏の後には、なかなか心地良い。

1曲目も、知らない曲のつもりで聴いていたが、チャイコフスキーの「悲愴」の第二主題が登場する時と同じ和音だな、などと考えていると、続いて登場するのは、お馴染みラ・プレリュードの旋律である。

あれあれ、どうしてここまで気づかなかったのだろう、と思ったが、全曲を実演で通しで聴くのが、これが初めてなのだからかも知れない。

曲想は自由に次々に変化してゆくが、それでいて、ハイドンを聴いている時と似た味わいがある。
音楽に、ある一線を決して越えない端正さがあるのだ。
これが、後期ロマン派を知る現代の聴衆に、ある種の物足りなさを感じさせるのかも知れないが、この作曲家が、かつてピアノ奏者として、多くの婦人たちを失神させていたのも事実であろうし、非凡な即興演奏ができたから、交響詩という新分野を拓けたのであろうから、彼のピアノ即興は、意外に、このような端正さがあったのかも知れない。

失神というと、どうしても、プレスリーやビートルズに熱狂する女性たちの像が重なってくるが、当時のヨーロッパの婦人たちがプレスリーやビートルズを聴いて失神するとは思えないから、当時は、これが革新的で、心をかきむしる熱狂を呼ぶ力を持っていた、と考えるのが、適切な気がした。

2曲目は、確かに知らない曲であるが、それでいて、後年のワーグナーにつながる管弦楽法を感じる。

こうやって聴いてくると、リストとは、ロマン派以降の音楽に必要な要素を予見し、それらを、数々の引き出しとして
集大成し、後年の作曲家たちのための遺産として残していった人物であったように感じられてきた。

最後の一振りで、指揮棒が客席に飛んで行ったのは、指揮者が演奏に没頭していたことの証しであろう。

2017年3月25日(土) 14時 Bunkamura オーチャードホール
アッシャー・フィッシュ指揮 新日本フィルハーモニー交響楽団
ベートーヴェン バレエ音楽『プロメテウスの創造物』 op.43 序曲
シベリウス    ヴァイオリン協奏曲 ニ短調 op.47(独奏 サラ・チャン)
リスト       交響詩『前奏曲(レ・プレリュード)』 S97
リスト       交響詩『マゼッパ』 S100

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