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2016年12月

吉坊ノ会 (2016/12/27)

落語については、わざわざ寄席に足を運ぶほどの興味はないのだが、ふとテレビで見掛けた日本舞踊の所作に、これまでの落語家にはなかった芸の持ち主かも知れぬ、と感じ、何はともあれ、実演に足を運ぶことにした。

まず前座が出て来る。
気楽に笑うには、こんな感じで充分楽しい。

そして、真打ち登場である。

テレビで見ても、また、舞台に登場した姿を見ても若手に見えたのだが、噺が始まると、思っていたより年齢が行っているのかな、と思えてくる。

これは、プロゴルファーのルーク・ドナルドが、ゴルフをしていない時には若者の顔なのに、ショットをしている時の写真では、壮年期の男性の顔に見えるのと似ている。

そして、噺の途中で、期待以上に、日本舞踊の所作や歌舞伎の見得を見せてくれる。
落語を聴きに来て、日舞と歌舞伎も見せて貰えたようなお得な気分になる。

後半は、まず紙切り。
実演では初めて観たが、これは盛り上がる。
口では馬鹿話をしながら、手は、その場のリクエストに応えた作品を即興で切り出すのだから、これは、口ではプッチーニの悲劇のアリアを歌い、聴衆の涙を絞りながら、手では、突然提示された素材で美味で客を唸らせる料理をしている現場にいるかのような、普通の人間では、どうにもやりようのない技が、いま目の前で現実で進行しているのを目撃している興奮であるように思われた。

再び真打ちが登場しての演目は、人情噺の一種であろう。
確かに、噺を聴いた後の余韻は、シェイクスピアの悲劇やヴェルディのオペラを鑑賞した後の、自身の深層心理を照らし出されたかのような感慨に通じるものがある。

あちらは、寄ってたかってその世界を創り上げているのに、こちらは、たった一人でそれをやっている。

これは、気楽に笑いに来た人には、おいおい話が違う、と感じさせたりもするだろうが、笑いの芸であるはずの落語に、こうした分野が生じてきた背景には、興味がそそられる。

笑って帰るだけでは何かが足りない、と話す側も聴く側も感じていなかったとしたら、こうしたレパートリーは生まれなかったろう。

それはそうであろうが、それが、たった一人で演じ切る芸として成立できたのは、笑いの分野で培った数々の技術があったからこそだろう。

いやいや、たった一人ではない。

鳴物との巧みな連携あってこその芸である。

そう考えると、ますます、オペラの構造に似てくる。

なかなか面白い発想に導いてくれる落語家である。

吉坊ノ会
2016年12月27日(火)19時 渋谷区文化総合センター大和田 伝承ホール
三遊亭わん丈       新・蝦蟇の油
桂 吉坊          淀の鯉
林家二楽         (紙切り)
               桃太郎、SMAP、先代正楽師、
               サンタクロース、大晦日、吉坊師
桂 吉坊          弱法師(よろぼし)

羽生三冠講演会 「AI(人工知能)時代の行方」 (2016/12/22)

チャンネルをかちゃかちゃやっていて、NHK杯の将棋対局の解説にふと耳を惹かれた。
それがこの棋士であった。

解説を聞いても、内容を理解できるわけではないのだが、知性を刺激される感じがあって、他の棋士とは違う何かを感じ、機会があったら直に話を聞いてみたいものだ、と思っていたら、この講演会が目に止まった。

会場に来て見ると、大広間に、披露宴のように丸テーブルが配置され、洋食器が並んでいる。
参加者の多くは、経営者風の背広を着た紳士である。

講演の内容で最も興味を惹かれたのは、質問に答えた際に披瀝された、今のところ、AIは、接待将棋が苦手である、という言葉だった。

今は苦手なのかも知れないが、最もAIが有用なのは、おそらく、この分野であろう。

初心者は、まず、どの駒を、どう動かしたら良いのか、見当がつかないわけだから、最初の数手で、これはすぶの素人だ、と判断したら、序盤の態勢の作り方のお手本を示してあげるなどして、一方、お馬鹿な手を打ったら、大事な駒を、敢えて取ってしまうことで、それを教え、などして、相手の実力に合った対戦をしてくれるようになれば、親の立場としては、ファイナルファンタジーよりも、まず将棋ゲームを与えたくなるであろう。

無論、こうした、相手の実力に合わせた大局は、将棋指導者の方が上手いであろうが、バレエや水泳とは違い、子供の習い事に将棋を選ぶ親は、まずいない。
しかし、ゲームで基礎を身につけ、きちんと将棋を勉強したい、と子供が言い出せば、話は別であろう。

ファイナルファンタジーにどれほど熟達しても、その技能が、人生の後半に生きる可能性はまずないが、子供の頃に将棋の基礎が身についていれば、これは人生の後半を豊かにしてくれる要素となり得る。

トップ棋士を打ち負かすほど強いAIが出来ても、戦えば必敗であれば、それでも戦う人は稀であり、市場価値は低い。

現在のAIは、人間に勝つことばかりを考えているが、人間社会では、相手のレベルに合わせて対応できる能力の方が、多くの場合、有用である。

例えば、対話において、若干の会話で、相手の語彙力、思考ロジックを把握し、その範囲内での会話が組み立てられる人に対しては、人は好意を抱く。
なぜなら、その人の話は、理解できるから。

理解できない話をする人に好意を持つ人は少数であろう。

もしAIの開発を、この方向に振れるのであれば、その時初めて、人の職業を、AIが奪う事態になり得る。

現在一部で喧伝されている、AIが多くの人の職業を奪う水準に既にある、という話は、AIの機能をその得意な方向に拡張して、そこで人間を凌駕できることを示しているだけの虚仮脅しであることが、把握できたように思った。

マクドナルドは、ただでさえ苦戦しているのに、これでフロントの女の子が機械に代わったら、客足が更に落ちるのは目に見えている。

人間の世界とは、そういうものだと思う。

毎日メトロポリタンアカデミー 羽生善治さん講演会
「AI(人工知能)時代の行方」
12月22日(木)午前11時半 ホテルメトロポリタン

新国立劇場 「ヘンリー四世」 (2016/12/18・20・21)

この劇作家が採り上げる権力者の物語の大半は、終始ドロドロとした人間模様であるが、この作品だけは、フォールスタッフという人物が紛れ込んできてしまったため、全く異色な出来栄えになっている。
登場人物たちは、デブ、チビ、赤鼻など、身体的欠陥を言い立てられても結構平気で、それを楽しんでいるようにさえ見える。
次から次へと聞かされる、文字に起こしたら読むに堪えないであろう悪口雑言の数々も、、少しも不愉快にならず、楽しめてしまう。
深層心理に、このような悪口雑言が、出番を得ることも無く貯めこまれていて、それを代わりに言い立ててくれることに快感を覚えていたのかも知れない。
あれほど言いたい放題に言い合えれば、生活は貧乏でも、ストレスとは無縁であろう、と羨ましくさえ感じた。

この芝居では、この庶民の世界と王族貴族の世界が交互に登場するが、庶民の世界の方に、より芝居の魂が宿っているように感じられた。
王子役の演技も、庶民の世界の場面の方が、生き生きしているように見えた。

これに比べると、権力者の場面は難しい。

権力欲は、食欲、性欲と同様、誰の胸にも眠っているが、食欲、性欲と違い、権力欲を自覚している人は少ない。
これは、プラトンが語っている通り、権力を持つと、人の魂は権力欲に食われてしまい、自覚の主体者とはなり得ないからだろう。

そうした中で、第一部、第二部を通じて、最も真実さを感じたのは、老王が死に、新王が、かつて自分を投獄した高等法院長に邂逅した場面。
ここでの法院長役は、名演技だった。

しかし、こうして信任を新たにした高等法院長により、フォールスタッフが投獄されてしまう最後の場面は、ちょっと可哀想である。
ヴェルディが、彼が最後に救われる設定の物語の方を選択してオペラを書いた気持ちが、分かる気がした。

新国立劇場 シェイクスピア 「ヘンリー四世」 第一部 混沌 第二部 戴冠
2016年12月18日(日)12時、17時半、20日(火)18時半、21日(水)18時半
新国立劇場 中劇場
翻訳 小田島雄志
演出 鵜山 仁
浦井健治 岡本健一 勝部演之 立川三貴 綾田俊樹 ラサール石井 水野龍司
木下浩之 有薗芳記 今井朋彦 青木和宣 田代隆秀 那須佐代子 小長谷勝彦
下総源太朗 鍛治直人 川辺邦弘 佐川和正 亀田佳明 松角洋平 松岡依都美
藤側宏大 岡﨑加奈 清水優譲 中嶋しゅう 佐藤B作

藝大SPレコードコンサート (2016/12/13)

SP録音の魅力については、時々耳にしたことがあるし、ワルター/ウィーンフィルのSP録音は、今は失われてしまったウィーンフィルの音色が見事に捉えられている、と思うが、SPレコードを、蓄音機で聴いたわけではないので、実際のところ、SPレコードは、どんな音で鳴るのだろう、とずっと興味を持っていた。

藝大がコレクションを持っていて、無料で聴ける機会を提供していることを知り、これは聴き逃せない、と思った。

会場の第6ホールというのはどこにあるのか、と思ったら、奏楽堂の左手を更に奥に入ったところにある校舎の一角である。

内部は、一般の人が見たら、まだ建設途中かしら、と思うような造りである。
舞台も壁も全て木製というところが、藝大らしい。

客席のすぐ前に、蓄音機が置かれている。

想像していたのより、かなり大きい。

もっとも、想像の元にあるイメージは、蓄音機のラッパに耳を傾けている犬の姿なのだから、これは仕方がない。

今回掛けられた録音は、古いものは1900年代初頭、新しいものは戦後で、年代に幅があったが、録音の新旧と音色の魅力には相関がなかった。
古い録音でも、バイオリンの音色の魅力満載である。
特に、高音の倍音の伸びの感覚は、実演を聴いている時とあまり変わらない。
スピーカーを通した音に、どうしても感じてしまう、一種の違和感がないのである。

SPレコードというのは、片面4分ほど、というのは知っていたが、現物は意外に大きく、LPレコードとそれほど変わらない。
ということは、LPレコードに比べ、ずっと大きな溝が切られているはずである。
そして、レコードを掛けるたびに、蓄音機の脇のレバーを、ぐるぐると15回ほど回す。

ということは、電気回路で増幅していないことになる。

つまり、盤面から針が拾う音は、LPに比べれば大きいのかも知れないが、電気がないのだから、物理的に増幅するしか手がないことになるので、中にラッパか何か金属が共鳴する仕組みがあって、それで鳴らしているのだろう。

そんな音を聴きながらでも、解説者の澤学長は、音程の微妙な差も全て聴き取っていて、シゲティが、和音部分と旋律部分で、音程の取り方を使い分けていることを説明する。

バイオリンのような、フレットもない弦楽器では、それなりに正確な音程を取ることも相当に難しく思えるが、この水準の演奏家になると、音程の取り方も、幾通りかの引き出しがあって、使い分けが出来るらしい。

弦楽四重奏について書かれていたものを読んだ時にも、周りの楽器とのバランスで、微妙に高く、微妙に低く、という調整をしていることが語られているのを読んだことがあるが、何だか、1ヤード刻みで飛距離を打ち分けられるプロゴルファーに似た世界で、常人の想像の域を超えている。

今回聴いた4人の演奏家のうち、始めの3人は、いずれもこんな音色のバイオリンを聴いてみたい、と思ってしまうような、現代では、コンサートに足繁く通っても、まず耳にするチャンスのない音色だったので、これは、SPレコードと蓄音機という組み合わせが持つ個性が持つ音色なのでは、とも思ったが、最後に紹介されたイタリアの奏者の音色は、まるで違っていた。
これは、今でも演奏会で耳にするバイオリンの音と通じていて、その前までに掛けられた3人の音色とは別物である。

ということは、何らかの理由で、かつては存在していたバイオリンの音色が、今では、どの奏者にも出せなくなっている、ということになる。

楽器は受け継がれているのに、音は変わってしまっていることになる。

時代によって聴覚が変化することは、脳の機能から考えれば不思議ではないが、同じレコードと同じ再現装置で鳴るのは、昔の人が聴いていたのと同じ音のはずであり、それに、現代人の我々が、現代の演奏家からは聴くことのできない魅力を感じる、ということは、聴覚の時代変化からは説明できない。

聴衆の感覚変容のためではないとすると、演奏者側が変化していることになる。

つまり、昔の演奏者と同じ楽器を使っても、昔の演奏者が出していた音色が、現在の演奏者では出せなくなっている、という仮説になる。

弦楽器については、そこまで考察できるほどの音を聴くことが出来たが、伴奏のピアノについては、これでピアノ演奏を評価しろと言われても、背景音以上のものではない。

確か、SP時代のコルトーに、名演が残っていたと思うので、そういうものも聴かないと、SPコレクションの価値がどこにあるのかを把握できないのかも知れない。

最新オーディオの音を聴くよりも深い音楽経験ができたように感じた。

第8回 ローム クラシック スペシャル
澤和樹学長が選ぶ蓄音機で聴くSP時代のヴァイオリンの名手たち 2
2016年12月13日(火)18時半 東京藝術大学 音楽学部第6ホール
解 説 澤和樹学長
ゲスト  アゴスティーニ・フェデリコ招聘教授
司 会 大角欣矢教授(音楽学部楽理科)

ヤン・クーベリック演奏       
「そよ風」フバイ,
「スケルツォ・タランテラ」ヴィエニャフスキ
「ツィゴイネルワイゼン」サラサーテ

ブロニスラフ・フーベルマン演奏
「ヴァイオリン協奏曲」チャイコフスキー より
「カルメン・ファンタジー」ビゼー/サラサーテ 

ヨーゼフ・シゲティ演奏
「無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第1番」バッハ より
「カプリース第9番」パガニーニ
「ヴァイオリン協奏曲」メンデルスゾーン より

ジョコンダ・デ・ヴィート演奏 
「シャコンヌ」バッハ
「ソナタ第4番」ヘンデル より

松田理奈@紀尾井ホール (2016/12/10)

昨年、しばらく聴いていなかったから行ってみるか、くらいの気持ちで足を運んだら、何かに覚醒したかのような演奏の変貌ぶりに驚き、次の機会を待っていた演奏家である。

楽器を完全に手の内に入れ、自分の想いを表現する道具として使い切っていた昨年の演奏に比べると、楽器との関係に、変化が起きていた。

今回の楽器は、おそらく相当の名器であるが、名器は名馬に似て、そう簡単には手の内には入らない。過度なくらいに敏感であるから、少しでも余計なことをすると不快感を示す。また、自分の意思を持っているから、そう易々とは人間の道具にはならない。時たまは、演奏者が楽器が出したい音を出させられているようにも聴こえ、演奏者の想いに染め抜かれた音ではなくなっていた。

それでいて、演奏者は、楽器にすっかり酔っているようでもある。

この風景は、どこか、時代劇に出て来る妖刀の魔力を想わせる。

後半のクライスラーから、風景が変わった。
これは確かに演奏者の出したい音であるが、この楽器の音でもある、という両者が同一化したかのような音が聴こえ始める。
クライスラー自身の演奏というと、懐かしいような、人間的でいて、気品ある響きが思い出されるが、それに通じるような気品と人間性に満ちた音がしている。

その調和が最も発揮されたのは「踊る人形」。

普通に弾いたら、親しみ易い小品でしかない曲であるが、極上のフランス人形が踊っているかのような、芸術性に満ちた音楽になっていた。
この曲で、これほどの演奏に接する機会は、もうないだろう、と思えるほどの水準だった。

音楽以外の部分では、最初に舞台に登場して、調弦を終え、ピアノ奏者に目で合図を送ると、静かに目を閉じて前傾して、序奏の開始を待つ姿から放射される、演奏者の集中力が印象的だった。

ピアノ奏者も、容易には演奏を開始しない。

この、関取同士の火花を散らすような仕切りに似た光景は迫力満点。

ヴィターリのシャコンヌを演奏する姿には、このバイオリン奏者には、この曲が、1つの物語として見えているのだな、と感じさせるものがあった。

演奏しながらバイオリンを見つめる時の、幼い我が子を見るような視線も、これまで見たことのないものだった。

おそらく、こうしたところに、この演奏家が、10年の歳月の中で見出した、楽器と自分とを深いところで結びつける型のようなものがあるのだろう。

前半最後のカルメン幻想曲では、終曲のジプシーダンスあたりから、本当に鳥肌が立ってきた。

演奏者の役割は、何よりも、まず楽譜の忠実な演奏、というのは真実には違いないが、一方で、演奏者が自分の演奏に喜びを感じていないで、どうして聴衆に音楽の喜びが伝わることがあろうか、という、この演奏家の姿勢にも真実があると思う。

この演奏家の何よりの美質は、音楽の喜びとは、演奏者自身で独占できるものではない、聴き手の心に伝わっている実感が反って来て、初めて演奏者は、演奏することの価値を知ることが出来る、ということを本能的に感じていることだと思う。

デビューコンサートの光景は、今でも、よく憶えている。

ガチガチに緊張した演奏の中で、時たま、非凡な、骨太な音色が響き、確かに何かは持っているが、これが、将来、形を持ったものになってゆくのだろうか、とその時は感じた。

音楽というは、音だけで成り立っているものではないのだな、ということを、今回の演奏を聴いていて、ふと思った。

また、満席の客席からは、聴衆が聴きたいバイオリンは、ソナタではないのだ、というメッセージを感じた。

松田理奈 ヴァイオリンの偉人たちに寄せて
CDデビュー10周年リサイタル
2016年12月10日(土)14時 紀尾井ホール
松田理奈(Vn),江口 玲(Pf)
ヴィターリ   シャコンヌ ト短調
パガニーニ  カンタービレ
サラサーテ  カルメン幻想曲
エルガー    愛の挨拶
エルガー    朝の歌
エルガー    愛の言葉
イザイ      子供の夢
ドルドラ      思い出
クライスラー  愛の悲しみ
クライスラー  メロディー(グルック:歌劇「オルフェオとエウリディーチェ」より)
クライスラー  美しきロスマリン
クライスラー クープランの様式によるルイ13世の歌とパヴァーヌ
クライスラー ロンドンデリーの歌
クライスラー 踊る人形
クライスラー コレルリの主題による変奏曲
クライスラー テンポ・ディ・メヌエット
クライスラー プニャーニの様式による前奏曲とアレグロ

毎年レクイエム@トッパンホール (2016/12/5)

ほぼ毎年聴いているコンサートであるが、これまでは教会で聴いていたので、ホールで聴くのは、たぶん、これが初めてであろう。

このホールで、室内楽を超える編成を聴くのも初めてで、舞台には、何とか乗るようだが、小さな空間で、演奏は大人数ということになると、どんな響きになるのか、少し心配になる。

結論から言うと、コンクールの予選で使われているホールだけのことはあり、教会の残響のように傷を隠すようには響かない。
しかし、良いものは良い、と聴かせてくれる。

モーツァルトで言うと、今回は、ラクリモサで、一音ずつ高揚して行く場面で、響きが充実してきて聴き手の胸に響く音になった以降は、ほぼ、指揮者がこのホールで実現したかった音が鳴っている感覚になった。

特に、この曲の最後の一音は、合唱と管弦楽が完全に一体になった音になっていて、貴重な音楽体験になった。

この感じは、間に調弦を入れたにも関わらず、次の曲にも継続していて、この日の演奏の頂点になっていた。

MAT モーツァルト・アカデミー・トウキョウ 毎年レクイエム第9回
2016年12月5日(月)19時 トッパンホール
坂本 徹 指揮 モーツァルト・アカデミー・トウキョウ
ヨハン・ミヒャエル・ハイドン レクイエム ハ短調 MH 155, 1771
モーツァルト            レクイエム ニ短調 K. 626
MAT ヴォーカルアンサンブル
Soprani  大塚恵美子 金成佳枝 神山直子 田中結香 名倉亜矢子 本宮廉子  
Alti     奥村泰憲 輿石まりあ 髙橋和真 北條加奈 横町あゆみ
Tenori   大野彰展 金井隆之 沼田臣矢 真木喜規 吉田宏   
Bassi   浦野智行 小家一彦 小藤洋平 淡野太郎 山形明朗
MAT チェンバーオーケストラ (オリジナル楽器使用)
ヴァイオリン    大久保幸子 大西律子 門倉佑希子 小池吾郎 高橋真二 関口敦子 
ヴィオラ       上田美佐子 小林瑞葉
チェロ         伊藤恵以子 十代田光子
コントラバス    角谷朋紀 
バセットホルン  大友幸太郎 戸田竜太郎
ファゴット       鈴木禎  長谷川太郎
トランペット      大貫ひろし 中村孝志  中村肇 宮下宣子 
ティンパニ      鈴木力
サックバット     武田美生  生稲加奈代  生稲雅威
オルガン       渡部 聡

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