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2016年11月

藝大 弦楽シリーズ “ Viva Italia ! ” (2016/11/20)

芸大の先生たちの演奏だから、さぞかしお堅いヴィヴァルディだろう、と思っていたら、愉悦感に満ちた演奏が始まるので驚く。

だが、そのような細かな感想など吹き飛ばしてしまったのが、前半最後のバイオリンとコントラバスをソリストとした演奏だった。

この2つの楽器の奏者が、独奏者として揃い踏みするのは何か変な光景に感じたが、演奏が始まってぶっ飛んだのは、そのコントラバスの超絶技巧。

高速アルペジオを演奏する時の右手の技術も凄いが(というか、コントラバスの弓を、こんなに高速に動かす右手のテクニックがあるなどとは、想像だにできなかった)、長大な指板を目にも止まらぬ速さで上下する左手のテクニックには、目を瞠(みは)った。

セッティングの時、マイクが運び込まれて来たので、独奏者が何か解説でもするのかな、と見ていたら、合奏団の後の方に持って行ってしまったので意味不明であったが、コントラバス奏者が超絶技巧を駆使しているその最中に、合奏団のコントラバス奏者がマイクを持って来て、独奏者の口元へ。

すると、

「この楽器が大きいので、時に、左手では間に合わなくなることがある。そういう時は顎を使うんだぜ」

と訳の分からないことを言う。

「いいか、見てろよ」

と言うと、本当に低弦を顎で押さえながら弾く。

「誰だ、でもビブラートがない、とか言っているのは。もちろん出来るんだぜ」

と今度は、顎でビブラートをかけて見せる。

会場は、もう爆笑の渦である。

独奏同士の掛け合いも、まずコントラバス側が、どうだこれがお前に弾けるか、と超絶技巧を弾いて見せて、バイオリンを挑発するという、あべこべな光景が展開する。

バイオリン奏者も、次々の超絶技巧を駆使しているのだが、ある意味、これは見慣れた光景であるし、バイオリンは小さいので、細かいところは良く見えない。

その点、コントラバスは、奏者がどれほど凄いことをやっているのかが、はっきりと見える。

完全に、コントラバスがバイオリンを食ってしまっている光景である。

こんなことが出来るのなら、パスキエさん、今度日本に来る時には、ピアノ奏者ではなく、彼と組んで、ツアーを組んだらどうですか、と言いたくなる。

大人が観ていても爆笑であるが、これは子供に受ける。

まるでアスリートのパフォーマンスを見ているかのように、何をやっているかが全て見えるのが、実にいい。

オーケストラの首席コントラバス奏者だそうだが、それは、他の演奏家にも出来るだろう。

これは出来ない。

コントラバスという楽器には、抜群のエンターテイメント性があることを、初めて教えられた。

これまで、コントラバスの名手というのを、何人か聴いたが、やはり魅せる楽器と言うには音域が低すぎる、という感想であったが、今回は、それを全く感じない。
そして、低音は低音で、実に魅力的である。

初めてバイオリンの超絶技巧を聴いた時、思わず魂を奪われたが、それと同質の経験が、思いがけない形で、やって来た。

後半のレスピーギは、曲が進むほど、しっとりとした情感がにじみ出てくる演奏であった。

特に、ビオラパートに旋律が周ると、この曲にぴったりの味わいが出ていた。

文部科学省国立大学機能強化事業「国際共同プロジェクト」
東京藝術大学 弦楽シリーズ2016
日伊国交 150 周年 “ Viva Italia ! ”
2016年11月20日(日)15時 東京藝術大学奏楽堂

ヴィヴァルディ 《 3つのヴァイオリンのための協奏曲》ヘ長調 RV 551
ヴァイオリン独奏  玉井 菜採 野口 千代光 漆原 朝子 
チェンバロ  鈴木 愛美

ボッケリーニ 《チェロ協奏曲》ト長調 G. 480
チェロ独奏  中木 健二

ボッテジーニ ヴァイオリン、コントラバス、弦楽合奏のための《協奏的大二重奏曲》
ヴァイオリン独奏  レジス・パスキエ  コントラバス独奏  池松 宏

ロッシーニ 《弦楽のためのソナタ第5 番》変ホ長調 
レスピーギ 《リュートのための古い舞曲とアリア 第3 組曲》

弦楽合奏
 ヴァイオリン  漆原 朝子 玉井 菜採 野口 千代光
              新井 貴盛 戸原 直  三輪 莉子 宮本 有里 三雲 はるな 
 ヴィオラ       市坪 俊彦 渡部 咲耶 野澤 匠
  チェロ         河野 文昭 飯島 哲蔵
  コントラバス   池松 宏  永井 桜

パク・キュヒ@東京文化会館 (2016/11/19)

聴き始めは音が遠く感じられ、ギターを聴くなら、やっぱり白寿ホールかな、と思ったが、演奏に惹き込まれると、そんなことは感じなくなるところが面白い。

特に、後半に演奏されたブラジルの新作は、確かに演奏者本人が解説していた通り、なかなか難解で、ちょっと入って行けないかな、と感じていたのに、いつの間にか、すっかり音楽に魅せられていて、演奏時間17分と聴いて、かなり長く感じるだろうな、と思っていたのが、えっ、もう終わり?と感じた。

演奏者の技量が、着実に向上しているからであろう。

その意味では、続いて演奏されたアストゥーリアスでは、はっきりとスペインの空気感と、イスラム国家に支配される時期を持つたヨーロッパ国ならではの、独特の音律感が出ていて、例えて言うなら、日本のスペイン料理ではなく、スペインで食べるスペイン料理の味わいがあった。

以前に見られなかった激しい表現も随所に現れるようになり、これはきっとスペイン留学で得た血なのであろう。
何となく、この演奏家の魂に、とうとう火が点いてしまった、という感じがした。

どうか、指を傷めることなく、激しさを存分に表現できる形で、技術を高めていって欲しい。

朴 葵姫 ギターリサイタル
~スペインの記憶~
11月19日(土) 14時 東京文化会館 小ホール
バッハ          シャコンヌ
スカルラッティ  ソナタ K178 K14 K391
タレガ          グラン・ホタ
ブローウェル   旅人のソナタ
アルベニス    スペイン op.165より 第5曲「カタルーニャ奇想曲」
          スペイン組曲 第1集 op.47より 第3曲「セビリヤ」
                             第5曲「アストゥリアス」
          スペインの歌 op.232より 第4曲「コルドバ」

新国立劇場 歌劇「ラ・ボエーム」 (2016/11/17)

この作曲家の作品の中でも、何度でも聴きたくなる歌劇である。

第一幕で、ミミの手を捕ったロドルフォが、「冷たい手を」と歌い出すと、やっぱりいいなあ、と思ってしまうが、今回の公演では、それ以上に、管弦楽の暖かい響きが心に響いてくる。

そして、これまでは、どちらかと言うと、美味しいところは第一幕と第二幕で終わってしまうように感じていたのが、今回は、これまであまり共感できなかった第三幕に、しみじみと共感できた。
もう一緒に暮らすのが無理になっている二人が、「春になったら別れよう」などと歌うのは、どこか不自然に感じていたからなのだが、この公演では、その心情が分かるような気がしたのだ。

これも、管弦楽の心理描写の巧みさの効果だと思った。

おそらく、指揮者は、登場人物たちの内面を、相当に深く見つめていて、その心情を聴衆に伝えるには、楽譜を、どう音にすれば伝わるのか、を徹底して考察しているのだろう。

プッチーニの楽譜は、普通に演奏しても、充分な効果が挙がるように、綿密に構成されてはいるけれども、自分が、それぞれの登場人物に、次々となり代わって行くかのように感じてしまう演奏をされると、いつの間にか、自分の内面にも舞台が用意され、その中でドラマが展開しているかのような感覚になる。

第四幕になると、その共感は、さらに強くなった。

本日は初日であるから、特に、登場人物が多く、舞台転換も多い第二幕の流れには、まだぎこちないところも感じられるのだが、それでも、やっぱりこのオペラはいいなあ、と思わせられるのは、登場人物たちを徹底して支えようとする指揮者の姿勢によるものなのだと思う。

このプロダクションを初めて観た同行者は、各幕の舞台の美しさを堪能していた。

同じプロダクションでも、再演のたびに、どこかが工夫されているように感じられる。

ところで、ミミが死んだのは、どの季節なのだろう。

ボヘミアンたちは震えていないから、真冬ではないのだろう。
真冬だったら、流石に、外套を売る気にはなれないだろうし。

しかし、春に別れたのだとしたら、次の冬も乗り越えて翌春までミミが生きていた、というのも不自然だろうか。

だったら秋だろうか。

金持ちの愛人になることで、冬は暖かく過ごして何とか命はつないだけれども、春のきざしが見えてきた時期に、いよいよ命数が尽きる、という設定の方が、舞台から受ける印象と合致する気がする。

今回、初めて発見したように思ったのは、第二幕でも第三幕でも、ムゼッタとミミの間に、深い共感関係が結ばれたことを示す場面はないのに、第四幕では、ムゼッタが必死にミミを探し出すし、その設定に、少しも不自然さを感じないこと。

ミミの方は、ムゼッタを初めて見た時から、彼女のことを直感的に理解していたように設定されている。

ふたりの主人公の蜜月の場面は舞台には登場しないが、その間に、恋人と縒りを戻したムゼッタが、ミミを理解していたとするなら、第三幕で、「春になったら別れよう」と歌っている二人と、その隣で痴話喧嘩をしているムゼッタたちの歌唱とが四重唱となるところは、どこか「リゴレット」との相似を感じさせるし、この時のムゼッタは、二人がどのような状態にあるかを瞬時に察して、敢えて痴話喧嘩を演じていた、と考えると、そんなミミのその後を、放っておけなかった彼女の心情がよく分かる。

なるほど、震えるほどに寒い雪の情景の中に、こうした心情を散りばめるからこそ音楽が生きるのか。

何度も聴いているのに、今更、そんな発見があるところに、繰り返し聴きたくなる魅力の源泉があるのかも知れない。

オペラ「ラ・ボエーム」/ジャコモ・プッチーニ 
全4幕〈イタリア語上演/字幕付〉
2016年11月17日(金)19時 新国立劇場
【指 揮】 パオロ・アリヴァベーニ
【演 出】 粟國 淳
【ミミ】 アウレリア・フローリアン
【ロドルフォ】 ジャンルーカ・テッラノーヴァ
【マルチェッロ】 ファビオ・マリア・カピタヌッチ
【ムゼッタ】 石橋栄実
【ショナール】 森口賢二
【コッリーネ】 松位 浩
【べノア】 鹿野由之
【アルチンドロ】 晴 雅彦
【パルピニョール】 寺田宗永
【合唱指揮】 三澤洋史
【合 唱】 新国立劇場合唱団
【児童合唱】 TOKYO FM少年合唱団
【管弦楽】 東京フィルハーモニー交響楽団

国際音楽祭ヤング・プラハ (2016/11/16)

このホールには、1年以上来ていない気がする。

ロビーへのエスカレータを昇っていると、「スラブ舞曲」がフルートの音色で聴こえてくる。

どうやらフルート合奏のようだ。

ロビーに着いてみると、案の定、開演前のロビーコンサートであった。

全員外国人。

ずいぶんと大勢である。

この音楽が、何とも言えず、胸に沁み込んで来る。

ボヘミアらしい暖かな音色もあるが、伴奏が刻んでいるリズムに、独特の魅力があるからであるようだ。
これは日本人には、容易に真似ができない。

18時開演、21時半終演のロングコンサートであるが、1曲毎に、演奏者が替わって行く、こうしたコンサートは聴いていて飽きない。

2回目の休憩が終わって登場したバイオリン奏者のドボルザークは、特に印象に残った。
以前に比べて、次第に、自分の音楽をつかみつつあるように感じる。
特に、終曲から、ボヘミアの「泣き」が聴こえて来たことには心を動かされた。

次に演奏されたショパンのポロネーズは、弾き始めは、音に多少濁りもあり、あまり心惹かれなかったが、やがて、ピアノから、巨大な心のうねりが立ち昇るのが見えてきて、ショパンとは、演奏次第では、こんな音楽になるのか、と驚かされた。

国際音楽祭ヤング・プラハ 創立25周年記念演奏会 in Tokyo
2016年11月16日(水) 18時 浜離宮朝日ホール
ヨハネス グロッソ (オーボエ/フランス)、ミロスラフ セケラ (ピアノ/チェコ)、 ロマン フラニチカ (ヴァイオリン/チェコ)、トマーシュ ヤムニーク (チェロ/チェコ)、太田 弦 (指揮)、 山根 一仁 (ヴァイオリン)、黒川 侑 (ヴァイオリン)、中村 洋乃理 (ヴィオラ)、阪田 知樹 (ピアノ)、周防 亮介 (ヴァイオリン)、菊地 裕介 (ピアノ)、桑原 志織 (ピアノ)、森田 義史 (ピアノ)、中村 友希乃 (ヴァイオリン)、岸本 萌乃加 (ヴァイオリン)、太田 紗和子 (ピアノ)、フルートアンサンブル ティカリ (チェコ)、品川ジュニアストリングオーケストラ (指揮 太田 弦)
ドヴォジャーク スラヴ舞曲ト短調 (ティカリ)
クラーク     ジグ ザグ ズー (ティカリ)
フバイ      カルメン幻想曲 (岸本+太田)
ショーソン     詩曲 作品25 (中村(友)+太田)
ショパン     バラード第4番 (桑原)
マルティヌー  オーボエ、ヴァイオリン、チェロとピアノのための4重奏曲(グロッソ+黒川+ヤムニーク+セケラ)
モーツアルト  ディベルティメント ニ長調 K.136(品川ジュニアストリングオーケストラ)
ヴィヴァルディ 四季より <冬> (周防 +品川ジュニアストリングオーケストラ)
マルティヌー  2台のピアノのための3つのチェコ舞曲(菊地+森田)
ドヴォジャーク 4つのロマンティックな小品 作品75(山根+阪田)
スメタナ     演奏会用エチュード 嬰ト短調 作品17「海辺にて」(セケラ)
ショパン          ポロネーズ 変イ長調 作品53 (セケラ)
ドヴォジャーク  ピアノ5重奏曲第1番 イ長調 作品5(阪田+フラニチカ+黒川+中村(洋)+ヤムニーク)

内田光子 with マーラー・チェンバー・オーケストラ (2016/11/8)

室内オーケストラの編成では、マーラーの作品は演奏できないだろうに、何故この作曲家の名前を冠しているのだろうか、などと、楽員が、チューニングを終えた舞台を眺めていると、ピアノ奏者が入場してくる。

弾き振り用に舞台に向けて配置されたピアノを前にして、慎重に椅子とペダルの位置を調整すると、おもむろに立ち上がって指揮を開始する。

その全身から音楽表現が放射されるような身体の動きと共に、それに反応して立ち昇った管弦楽の響きには驚嘆した。

このピアノ奏者の振る管弦楽を聴くのは、初めてであったが、これほど繊細で、隅々まで、ピアノ奏者の音楽表現を、管弦楽として表現できるとは、予想だにしていなかった。

しかし、客席で眺めていても、これほど音楽が伝わって来る身体表現ができれば、これは当然かも知れない。

この、指揮者の全身から音楽が放射されてくる様には、彼女と同じ年代だった頃の小澤征爾に通じるものがあるようにも思える。

少なくとも、この前奏に関する限りは、世界の一流に伍する水準の指揮であるように感じられた。

というのも、ピアノ独奏が始まれば、以後は座って指揮することになるし、下半身が指揮に使えなくなる分、指揮から伝わってくるものは減少し、オーケストラの反応も、その分マイルドになったからだ。

だが、管弦楽も、ピアノ奏者の表現となっているため、今まで聴いたことのないような、ピアノと管弦楽とが渾然一体となった音楽空間が現れる。

このことは、前のコンサートを聴いたプロの演奏家が述べていたように思うが、なるほど、その通りである。

両手で演奏している間は、手では指揮できないが、顔の表情と、首の動きで、何が伝えられるかを、ピアノ奏者は心得ているし、どのタイミングでどちらの手が自由になり、その時間と自由になった方の手を、どう指揮に使うかは、全て、演奏表現の中に組み込まれている。

この、何の無理も、てらいもない、流れるような心身の動きは、弾き振りという表現形式を、もう30年以上積み上げてきた経験の集大成なのだろう。

ピアノが運び出されると、次は、楽員が立位で演奏するセッティングが用意される。

楽員が入場を終え、さて、あのピアノ奏者が、バルトークなんて指揮するのだろうか、と思っていると、指揮者なしでの演奏が始まる。

なるほど、こういうことなのか。

休憩を終え、再び、ピアノ協奏曲である。

再び、ピアノが中央に配置されたセッティングとなり、ピアノ奏者は、同じように、椅子とペダルとの配置を確認してから立ち上がる。

だが、そこから響いて来た管弦楽は、1曲目とは違っていた。

2曲目で、指揮者なしで演奏する、いつものスタイルで演奏する過程で、楽員たちの内面に自主性が芽生えたのか、このピアノ奏者の表現ではなく、このオーケストラの表現と感じられる管弦楽が開始される。

1曲目のような繊細さやニュアンスの豊富さはないが、若者らしい、溌剌として、生気溢れる音楽である。

ピアノ奏者は、そんな変化は起きていないが如く、指揮を終えて独奏に移るが、展開部から再現部に移るところで、僅かにテンポを上げる。

モーツァルトの表現で、ここでテンポを上げるのは何故?、と思っていると、次の瞬間の管弦楽は、もうすっかりピアノ奏者の表現に戻っている。

なるほど、若者の自主性は充分に尊重しながらも、それが行き過ぎにならないように、さり気なくいなしてしまい、聴衆が求めている表現世界に回帰することが、こんな風にできてしまうのか。

一定水準以上の演奏家たちを集めれば、彼らが、テンポの変化にどう反応するか、を知り尽くしているのは、自身が、テンポの変化で、どれほど自分の表現が変わるかを体験し続けてきた演奏家ならではの名人芸だったのだろう。

同行者は、ピアノの響きに感じ入っていた。

弾き振りのため、ピアノをオーケストラに向けて配置し、反響板を取り外すと、ピアノ音は、遮られるものなく、全方向に広がり、管弦楽と一体になり易い。

そういうことも、全て織り込んでの演奏だったのだろう。

内田光子 with マーラー・チェンバー・オーケストラ 協奏曲の夕べ Ⅱ
2016年11月8日(火) 19時 サントリーホール
モーツァルト  ピアノ協奏曲第17番 ト長調 K453
バルトーク    弦楽のためのディヴェルティメント Sz113
モーツァルト   ピアノ協奏曲第25番 ハ長調 K503

新国立劇場 バレエ「ロメオとジュリエット」 (2016/11/5) 

バレエ無しで耳にすることの多い曲であるが、やはり真価を知るには、バレエと共に聴きたいと思っていた。
そして、バレエ付きで聴くと、演奏効果は倍加して感じられた。

踊りに合わせる必要もあっての、ゆったりとして堂々とした演奏は、この曲は、本来このように演奏されるべきものではないか、と想わせるほどの説得力があった。

そして、音楽が、驚くほど、バレエに合っている。
管弦楽だけで聴くと何気なく聴き流してしまう部分が、見事に踊りを引き立てる。

振付はもちろん、衣装も舞台も、音楽に良く映える。

正直、この作曲家に対する共感は、今一つだったのだが、この演奏には、深く共感できたし、音楽史の中でも巨大な存在であることを、実感できた。

舞踏では、太刀まわりの場面なども工夫が凝らされていたが、何と言っても、ジュリエットが登場する場面の芸術性が出色である。

とりわけ、ロミオに出会い、少女から女へ変貌する前の幼げな表現には、見とれてしまった。

筋書を持ったバレエの場合、あらかじめあらすじを知っておかないと、物語の展開が分からないことがままあるが、ここではそういうことはない。

言葉が使えないにも関わらず、物語が、着実に伝わって来る。

無論、演出面でも、そのための工夫はなされているであろうが、今回、とりわけそれを感じたのは、音楽の力ゆえであろう。

それを最も感じたのは、第三幕で、ジュリエットが、神父に渡された秘薬を飲むかためらって、ベッドでじっと思い沈んでいる場面で、バレリーナは身じろぎもしないのに、音楽が、ジュリエットの内面の展開をまざまざと感じさせ、続く舞踏が、決意に至った心境を示す舞いであることを、はっきりと感じさせたところであった。

群舞で最も印象に残ったのは、秘薬を既に服用し、既に、外見的には遺体と化しているジュリエットに、そうとは知らずに、婚礼準備で入室してくる女性たちの舞いで、彼女たちは、ジュリエットが既に息絶えていることは知らないはずなのに、その踊りからは、何かしら異様なものが伝わって来る、その感覚がひしひしと感じられ、バレエのひとつの醍醐味を味わえたように思えた。

全体的な印象としては、原作の設定のイタリアを感じることは、ほとんどなく、英国作家の作品らしさを感じることもなく、ロシアのテイストを色濃く感じた。

もし、ソ連時代に、こんな公演をしたら、作曲家は、帝政ロシアの伝統を引き継ぐ者として指弾されたかも知れないが、この曲に潜むロシアらしさを前面に引き出し、舞台もそれに合わせることにより、バレエ作品としては、またとない出来に仕上がった、と言えるのかも知れない。

新国立劇場バレエ 「ロメオとジュリエット」
2016年11月5日(土)14時 新国立劇場
音楽 セルゲイ・プロコフィエフ
.演出・振付 ケネス・マクミラン
マーティン・イェーツ指揮 東京フィルハーモニー交響楽団
ジュリエット     米沢 唯
ロメオ         ワディム・ムンタギロフ
マキューシオ     木下嘉人
ディボルト      中家正博
ベンヴォーリオ   奥村康佑
パリス        井澤 駿
キャピュレット卿  貝川鐡夫
キャピュレット夫人 本島美和
大公         内藤 博
ロザライン      木村優里
乳母         丸尾孝子
ロレンス神父    輪島拓也
モンタギュー卿    古川和則
モンダギュー夫人 寺井七海

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