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2016年10月

新国立劇場 楽劇「ワルキューレ」 (2016/10/18)

ぜひ聴きたい作品ではあるけれど、きっと疲れるだろうな、と思っていたのだけれど、聴いていて、ワーグナーのくどさ、しつこさを感じることなく、長さを意識させられることもなく、別世界に浸ることができた。

歌手については、これだけの水準で揃えて貰えれば言うことはない。

とりわけ、ブリュンヒルデが第二幕冒頭で歌うワルキューレの雄叫びは、戦いの女神の声とはこういうものだろう、と思わせられる声で歌われ、感激した。

管弦楽は、この指揮者らしい、淡白でありながら、ワーグナーを堪能させてくれるもので、動物脂肪を全く感じさせない。
胃もたれせずに済んだ最大の理由は、おそらく、これだろう。

そして、終幕の、娘を炎で包んで立ち去る場面は、演出も最高で、帰りの電車の中でも、同行者と、しばしぼんやりしてしまうほどの余韻が残った。

これほどのワーグナーを、手軽に聴ける環境にあることの有難味を噛み締めた一夜だった。

リヒャルト・ワーグナー 
楽劇「ニーベルングの指輪」第1日 「ワルキューレ」
2016年10月18日(火)17時 新国立劇場
演出 ゲッツ・フリードリヒ
飯守泰次郎指揮 東京フィルハーモニー管弦楽団
ジークムント   ステファン・グールド
フンディング   アルベルト・ ペーゼンドルファー
ヴォータン    グリア・グリムスレイ
ジークリンデ   ジョゼフィーネ・ウェーバー   
ブリュンヒルデ イレーネ・テオリン
フリッカ      エレナ・ツィトコーワ

ゲルヒルデ      佐藤路子
オルトリンデ      増田のり子
ヴァルトラウテ    増田弥生
シュヴェルトライテ 小野美咲
ヘルムヴィーゲ    日比野 幸
ジークルーネ     松浦 麗
グリムゲルデ    金子美香
ロスヴァイセ     田村由貴絵

ユリア・フィッシャー@トッパンホール (2016/10/16)

5年前の震災で、演奏会がお流れになって、涙を呑まされた演奏家である。
この時、既に子供がいたことは知っていたので、欧州にまで出向かないと聴くチャンスはないかも知れない、と思っていた。

あれから5年ということは、子供は小学生の高学年。
それで再来日が可能になった、ということなのだろうか。

その実演に初めて接してみると、高い技術を持っていながら、超絶技巧を誇示する様子は微塵もなく、ソナタを音楽的に表現するこの演奏スタイルは、ルノー・カプソンに近いものを感じさせる。

カプソンの音色をシルクの肌触りと言うなら、この音色は、やや肌理(きめ)が粗いようにも聴こえるが、これはそうではない。
この演奏家は、激しいゲルマン魂を持っていて、それを完璧に制御し切っての、この音色だろう。
その秘められた激しい感情こそが、音楽に生命を与えている。

また、大半のバイオリン奏者が、幼児期からバイオリンを弾き続けた結果として、バイオリンの弾くための身体になってしまっているのに対し、このバイオリン奏者の身体は、左右のバランスが取れている点が異色である。

1曲目が終わって舞台を去る時の後姿を見て、この背中の筋肉は、ひたすら楽器演奏に打ち込んできたタイプではなく、楽器を弾くための身体を作るための工夫を、何かして来た人であることを示しているように感じた。

おそらく、それは、この演奏家が、バイオリンとピアノの双方で、一流の領域に達するという、類い稀な才能の持ち主であったことと無関係ではないだろう。

この外見の印象は、演奏にも表れていた。

よくバイオリンとピアノとの息の合った演奏、という言い方をするし、両者がぴたりを符合するこの演奏も、そんな見方も出来るだろう。

だが、両者の同期のレベルは、それを超えている。

このバイオリン奏者の身体はバイオリンを弾いているが、頭の中ではバイオリンとピアノの双方を演奏しいているように感じられる。

もちろん、プロのバイオリン奏者であれば、誰でもピアノ譜にも当然目を通しているであろうが、この奏者の場合は、ピアノ譜も、ピアノ奏者の身体表現としてイメージできているはずである。
しかも、そのイメージの水準は、世界の一流である共演者と、そう違わない。

すると、頭の中の、自分のピアノ演奏をイメージしながら、バイオリンを弾くと、共演者のピアノ演奏との、完全同期が現出する。

そんな風に感じたのは、このバイオリン奏者が、敢えてもう1曲追加したシューベルトのソナタを聴いている時だった。

管弦楽では、オーボエとファゴットを重ねるとか、オーボエとフルートとを重ねるとかして、多様な音色のバリエーションを出すが、この演奏で、バイオリンとピアノがユニゾンになると、それに似た、バイオリンでもなく、ピアノでもない音を聴いているような感覚になる。

こんな風に聴こえるのは、少なくとも、2人の演奏者のどちらかが、2つの楽器の演奏を、完全に意識の中で統合できている場合だけだろう。

そして、この2人の中で、それを出来るとしたら、彼女である。

シューベルトのバイオリン曲は、時たま採り上げられるが、聴き手としては、あまり楽しくない。

作曲家が、バイオリンという楽器の特性を際立たせる作曲を指向していない、と感じてしまう点もあるが、生真面目に、双方の楽器が、対等に、旋律と伴奏を入れ替わり担当する点にもある。

旋律楽器であるバイオリンが旋律を弾いているうちはまだ良いが、バイオリンが伴奏に回ると、途端に音楽が詰まらなくなる。

ところが、この演奏では、そうはならない。

むしろ、バイオリンが伴奏に回った時の方が、音楽の魅力が際立つようにすら感じられる。

このことは、バイオリン奏者が、ピアノ演奏を通じて、和音進行とバス進行が、実は音楽を支配する、ということを体感して来たことが大きいのかも知れない。

とりわけ注意を惹かれたのは、伴奏にまわった際の、バイオリン奏者のリズム感。

バイオリンが伴奏のまわった際の演奏で、これほど躍動するリズムを感じたことが、これまであっただろうか。

その伴奏を見ていると、この奏者は、右手の技術を、リズムを表現する技術であると感じて、磨いてきたことを感じさせる。

これこそ、今後のバイオリン演奏で、最も求められていて、それでいて、多くの若手奏者が、それを意識することが出来ず、準備できていない分野だろう。

そんな驚くべきシューベルトの演奏に比べると、ブラームスの3番ソナタの演奏は、驚くほどに青い。

ここでは、音楽全体を手中にしていた、これまでの3曲とは異なり、ひたすら、バイオリンだけに集中しているように見え、協奏曲を演奏しているかのような、激しい身体表現も見られたが、音色には、ストラディヴァリウスを与えられた若手奏者がしばしば見せるような、乗馬の繊細さにそぐわない粗い扱いが現れ、ピアノとの同期も感じられない。

というか、ピアノ奏者も、ピアノ奏者でもあったはずの作曲家が書いたとは思えない、演奏至難なピアノ譜を消化し切れていない。

それでも、聴衆からは、やんやの喝采であったが、この二人なら、この日の演奏は、予告に過ぎなかった、と思い知らされるような演奏を、いずれ聴かせてくれることだろう。

この予感が、おそらく外れていないだろう、と確信させてくれたのが、アンコールの、F.A.Eソナタのスケルツォ。

こちらは、ブラームス演奏としては、ほぼ完璧な表現である。

冒頭で、僅か数拍ではあるが、バイオリンとピアノが同期するので、そこで歯車が噛み合うのが感じられた。

次回は、いつ来てくれるのだろう。

拍手は鳴り止まないのだが、バイオリン奏者が手ぶらで登場したので、アンコールはこれでお仕舞いか、と思うと、ピアノ奏者は楽譜を持っている。

ということは、と胸は高まる

期待通り、舞台係が、もう1つのピアノ椅子を運び込んで来る。

2016年10月16日(日)15時 トッパンホール
ユリア・フィッシャー(ヴァイオリン) / マーティン・ヘルムヘン(ピアノ)
ドヴォルジャーク ヴァイオリンとピアノのためのソナチネ ト長調 Op.100
シューベルト    ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ト短調 D408
シューベルト    ヴァイオリンとピアノのためのソナタ ニ長調 D384
ブラームス     ヴァイオリン・ソナタ第3番 ニ短調 Op.108

ベートーベン バイオリン協奏曲 by ファウスト with ノット/東響 (2016/10/15)

この日は、第一バイオリンと第二バイオリンが対向配置になっていたので、いつもは舞台右手から、ビオラと共に登場するチェロが、左手から登場してくるので、何かいつもと違うな、と感じたが、違うと感じたのは、そういうことではなく、入場してくる楽員たちから立ち昇る、ただならぬ緊張感だった。

これは滅多に聴けない演奏会になるかも知れない、と思っていたのに、冒頭のティンパニの連打が、意表を衝く軽い音で、速いテンポで始まってしまい、あっけに取られていると、オーボエと中心とする木管の美しい和音が響き渡る。

バイオリン協奏曲において、オーボエの先導が、演奏内容を左右することが時々あるが、この場面もそれであることが感じられた。

それのみならず、続く管弦楽も、細部まで丹念に工夫され、こんな繊細な前奏は聴いたことがない、と思わされた、

そして独奏開始。

楽器が大理石で出来ているのではあるまいか、と思ってしまう硬質な音色は、同じ楽譜を弾いていながら、別の曲を聴いているような感覚にさせる。

そして、独奏の最後の一音にオーケストラが被ってきても、独奏の音が聴こえ続ける。

やはり、独奏のこの1音は、聴こえた方が、演奏が断然音楽的になることを、初めて確認できた。

圧巻はカデンツァで、聴いたことのないユニークなもの。
このバイオリン奏者が、正確無比の技巧派であることを初めて目撃した。

そして、カデンツァの途中から、ティンパニが、冒頭の三連打のバリエーションで伴奏を始めると、突然、これは、バロック時代の、シャルパンティエか誰かの曲の引用ではあるまいか、と感じさせる、この協奏曲とは関係のない音楽の演奏が始まり、ティンパニの連打の中で、ベートーベンの楽想へと戻ってゆく。
だが、そこで繰り広げられる高度な技巧は、一体他の誰がこんな演奏が出来るだろうか、と思ってしまうほど、孤高なものである。

おそらく、聴衆の大半が、お馴染みのこの曲で、こんな演奏を体験するとは思いも寄らなかったはずで、第一楽章が
終結すると拍手が湧き上がりそうになったことにも、そうなっても可笑しくない、と同感できた。

なので、第二楽章の序奏も、何とも美しく演奏されているのだが、お馴染みの安らぎの音楽ではない。

ここでは、バイオリンから旋律を受け継いだファゴットが、伴奏に周ったバイオリン独奏を少しも損なうことなく寄り添う演奏に、しみじみとした共感を覚えた。

これほどの演奏に出会うと、どんな第三楽章を聴かせてくれるのだろうか、と期待が高まる、

が、第三楽章には入らず、ここで独自なカデンツァが始まる。

確かに、そのまま第三楽章に入ると、音楽が軽くなり易い。

第五交響曲の終楽章へのつなぎには、あれほど執着したベートーベンであるが、同時期に作曲されたクロイツェルソナタでは、第二楽章と第三楽章のつながりがどうもしっくりしないし、それに似た感覚は、この協奏曲にもある。

そして、その感覚を、独奏者が持っていたからこその、このアドリブなのであろう。

そして、それを経て開始された第三楽章は、確かにあるべき場所を得た音楽に聴こえる。

こういった独奏者の茶目っ気に反応して、どこであったか、オーケストラも、独自なパウゼを入れたりして、第一楽章から続く緊張感は全く途切れない一方で、この楽章の持つユーモア感を生かした遊びが入る、という従来のベートーベン演奏からは考えられない演奏でありながら、これによって、曲が一層引き立つ、という稀な現場に居合わせることが出来た。

第645回 定期演奏会
2016年10月15日(土)18時 サントリーホール
ジョナサン・ノット 指揮 東京交響楽団
ベートーヴェン   ヴァイオリン協奏曲 ニ長調 作品61  (独奏 イザベル・ファウスト)
ショスタコーヴィチ 交響曲 第10番 ホ短調 作品93

インバル指揮 都響 (2016/9/20)

台風接近の中での演奏会であったが、それを全く感じさせない客入りだった。

そして、デュメイのバイオリンを聴きにきたつもりが、インバルのショスタコーヴィッチに圧倒されて帰ることとなった。

デュメイのモーツァルトは、モーツァルトにしては乱暴に聴こえるところも多かったが、第二楽章の最後のフレーズは、独奏・オーケストラともに、モーツァルトの天上の世界を実現していて、この瞬間を味わえただけで満足だった。

インバルのショスタコーヴィッチは、楽員の真剣さが演奏から伝わってくる一方、過度な思いいれは感じられず、あくまで楽譜を最大限に生かす演奏をしている、という感覚で一貫していて、それでいて、音楽からは、着実のメッセージが伝わって来るという実感がある存在感がある演奏だった。

声を掛けた音楽仲間が、せっかくインバルのショスタコーヴィッチを聴けるという機会なのに、行けないなんて、と嘆いていたが、こういうことだったのか、と思った。

第815回 定期演奏会Bシリーズ 
インバル80歳記念/都響デビュー25周年記念
2016年9月20日(火)19時 サントリーホールホール
エリアフ・インバル指揮 東京都交響楽団
モーツァルト     ヴァイオリン協奏曲第3番 ト長調 K.216(独奏 オーギュスタン・デュメイ)
ショスタコーヴィチ  交響曲第8番 ハ短調 op.65

アンネ=ゾフィー・ムター ヴァイオリン・リサイタル (2016/10/5)

こうした大ホールでのバイオリンリサイタルは、舞台からの距離が離れると、楽器から直接飛んでくる音が少なくなり、反射音が多くなるので、木の胴体が鳴っている音に聴こえなくなってくるところがあり、どうも苦手である。

冒頭から現代曲らしき音楽が演奏され、次がモーツァルトというプログラム構成だったので、これは、たぶん30周年の委嘱作品であろう、と思ったのだが、あとでプログラムを読むと、そうではなかった。

この1曲目は、始めの方こそ、本日の天候に相応しく湿った音を出すバイオリンが精彩を欠き、完璧に調律されているピアノばかりが美しく響く、という風情であったが、バイオリンは終始ただ刻んでいるだけなのに、これが
不思議と音楽としての呼吸を持ち始める。

ピアノの音は、水滴が滴り落ちるかのようなモチーフを延々と弾いているので、バイオリンの刻みの微妙は変化が
浮き立ってくる。
ひょっとすると、この刻みは、風であろうか。

やがて、バイオリンが刻みを止めて、旋律を弾き始めると、やはり、旋律楽器は、旋律を弾く時に魅力が際立つ、と思う。

プログラムの最後を飾るサンサーンスが始まると、バイオリンの聴こえ方が、それまでの曲とは違うのを感じる。

原曲は管弦楽伴奏であるから、大ホールで演奏されることを念頭に作曲された作品なのであろう。
距離があってもバイオリンの魅力が、客席にまで届いてくる。

そのことは、アンコールで演奏されたチャイコフスキーも同様で、この曲が、協奏曲の第二楽章として作曲された、という説に、説得力を感じる。

アンコール最後のタイスの瞑想曲も、オペラのオーケストラピットでコンサートマスターがソロを弾く前提で作られた
ものである。

この日最も胸に迫ったのは「シンドラーのリスト」。
この演奏家の、やや癖のあるフレージングが、ユダヤの民族音楽風の哀愁を帯びたメロディーにぴったりで、この演奏家は、バイオリン奏者というより、実はフィドラーなのかも、とも思った。

アンネ=ゾフィー・ムター ヴァイオリン・リサイタル
2016年10月5日(水)19時 サントリーホール
ヴァイオリン アンネ=ゾフィー・ムター  ピアノ ランバート・オルキス
カリアー       クロックワーク
モーツァルト    ヴァイオリン・ソナタ  イ長調  K526
レスピーギ      ヴァイオリン・ソナタ  ロ短調
サン゠サーンス  序奏とロンド・カプリッチョーソ  イ短調  op. 28

アーサー・ベンジャミン ジャマイカ・ルンバ
チャイコフスキー      メロディ 変ホ長調 op.42-3
ブラームス(ヨアヒム編) ハンガリー舞曲第1番
ジョン・ウィリアムズ   「シンドラーのリスト」から
ブラームス(ヨアヒム編)  ハンガリー舞曲第2番
マスネ              タイスの瞑想

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